2017年5月30日火曜日

余生について

虫の湧く季節になった。

昆虫の写真撮るの難しいなぁ無理だわとか思っていたが、何気に去年あたりからちょいちょい撮影をしていた。実は。

綺麗な蝶の写真を撮りたいと思って森へ行く。
元気な蝶は動きが早すぎて撮るのがかなり難しい。
木に止まった、カメラ構える、ピンと合わせる、あれ?いない
というパターンが多い。

一転して、撮るのが簡単な蝶がいる。
羽がボロボロになりかけている蝶だ。


動きがゆっくりで頻繁に木に止まる。近づいてもあまり逃げない。
もう先が長くないのだろう。


「生きる」ということは同時に死に向かうことでもある。

どこかで誰かが言っていたことだが、
自分の一生を時間単位で表してみろと。

僕は今26歳だ。
あんまり長生きする感じはしないので50歳で死ぬと仮定する。

残りは24年。
日付単位にすると24(年)×365(日)=8760(日)
時間単位にすると8760(日)×24(時間)=210240(時間)

たったのこれだけである。
しかも睡眠時間を加味していない。

長いようで短い。1分そして1秒と死へ向かっている。

病気や事故で死ぬ場合もある。
そう考えると上の時間よりも短い可能性は高い。

人間というものは死という壁に囲まれた場所を這いつくばって存在してると言えるらしい。その絶望的な運命を積極的に引き受ける生き方をするべきじゃないんけ?
ってのがハイデガーやらニーチェやらその類の人の言ってることだった気がする(うろ覚え)


しかしである。
僕が普段考えていることと言えば、今日の夜のおかずどうしようとかそんなことだ。


日本は死の臭いがしない。
日本人の価値観として死は穢れであり極力排除したいものだと言える。
311の報道なんかもそうだったろう。

だから普段何気なく生きていると、死とは縁がないように思えるし、自分がリアルに死ぬなんてことを考える機会は滅多に無い。(もうちょっと若いときは死ぬってなんだろうとか結構考えたけど意外と自分って生きてるもんだなぁ、みたいな...)

外国で飛行機が落ちました。
ニュースキャスターは嬉しそうに乗客に日本人はいませんでした。
僕は何を思えばいいんだろう。
そんな夜は会いたくて会いたくて〜君に会いたくて〜

って感じなのだ。
本来僕らは死と隣あわせで生きているはずだ。
老後に備えて...なんて価値観は本来ばかばかしいものかもしれない(年金払いたく無いだけ)



つい先日、日本で働く同い年の韓国の友人と北朝鮮のミサイルについて話した。
もし戦争になれば彼は国へ帰って戦いに行かなければならないという。
冗談ばかり言う人なので、まさかと一笑したが
彼はこれは冗談じゃないよと言った。


残された時間は少ないのかもしれない。

2017年5月13日土曜日

ナンパ論 その1 話しかけることについて

街を歩いているとナンパ師という者をよく見かける。
新宿渋谷を歩いていると特に。

「いかにも」な服装を身にまとい、「いかにも」な言い回しを使って女性に声をかける。
よく心がヘシ折れないもんだなぁと思う。

カット割りを入れないとまともに話の繋がりがわからないような僕のような人間には到底ナンパなど無理な話であるよ(詳しくはyoutube見てね。宣伝)


一体どんな感じで話してんのかなと思い、ナンパ現場にさりげなく近寄ってみた。
「いかにも」なナンパ師と、声をかけやすそうな「いかにも」な若い姉ちゃんがそこにはいた。

ナンパ「髪はいつ切ったんですか?」
ちゃんねー「先月ぐらいです」
ナンパ「すぐ近くに僕の働いてるサロン・・・」

・・・サロン?

美容師だった。
いや、美容師ならもっとナンパ師っぽく無い服着なさいよ・・・。
警戒されるだろうよ・・・。

そんな出来事があった日の夜、僕は美容師にナンパされ髪を染めさせられてしまったのである(これについては後日。多分)


ナンパのポイントは話しかけるところにあるようだ(北山考)

いきなり
「すみません!ちょっと時間ある?お茶しません?」
なんて言われてお茶しようなんて人はいないだろう。(いたらすみません)


世界の果てまでイッテQの、
出川が海外の街に放置され、たくさんの外国人に話しかけてミッションを達成する
「出川はじめてのおつかい」という企画があるのだが、
出川のコミュニケーション能力の高さがスゴすぎる。
何がスゴイかと言えば出川の話しかけ方だろう。

「えくすきゅーずみー」
というぎこちない英語で話しかけたらすぐに
「これ、なに⁉︎どこ?」
みたいな感じでいきなり話しかけるのだ。

いきなり話しかけるから無視できなくなるそうで。
出川と一緒にロケに行ってる河北麻友子や堀田茜は質問するときに
「すみません、少し質問していいですか?」
と英語で尋ねるから無視されてしまうようで。

いきなり本題に入れば人は絶対無視しない
というのが出川流の話しかけテクだそうな。


とはいえ出川の物怖じしないでガンガン人に話しかけるとこがやはり一番スゴいのだ。
企画上話しかけないと始まらないというのもあるがね。

ナンパで置き換えて考えると、
ナンパが成功する確率ってのは100人中1人とかそんなもんなのかな?
街で見知らぬ人に声かけられてお茶しに行くか?って胸に手を当てて考えると
まあ行かないよねぇって思う。

安心してください。
人に声かけて上手くいく可能性なんて皆無なんです。

だからガンガン人に声をかけましょう。(暴言

そもそも最初から上手くいくっていう考えでナンパするからショックを受けるわけで。
そんなおこがましいこと考えてちゃあ成功はしないですぜ兄貴。
(さんまが言ってたことを脚色)


ということで、
次は具体的に何を話すかについて考えたいと思う。
予想以上に長くなってしまいそうなので次回!



今日のおさらい
・時間あるか?とか聞かずにいきなり本題に入る。
・物怖じしない。そもそも成功なんてしないんだから一々凹むな。





2017年5月8日月曜日

タイトルが定まらない件

ブログのタイトルが定まらない。

最初は映画評論とか書いてたので
普通に「北屋真暁の映画レビュー」みたいにしていた。
(北屋真暁という名で活動しようと考えていたが郵便にこの名前を書いて僕に送ってしまった人がいて、僕が本人確認ができずややこしい事になったので結局本名でやる事にした)

そんで昆虫の写真ブログでも始めようと思ったが、なかなかハードルが高い事に気がついて銅像の写真でも撮ろうと考えて「彫刻ハンターへの道」というタイトルを考えた。
(2回ぐらいで終了)

YouTubeで英語を喋ろうという事で「英語でゲーム実況がしたい北山」
というタイトルを考え、

ついに「脱ダメ人間への道」となった。
のである。


コンテンツを充実させる為には色々試す(色々手を出す?)事が大事であって、
一つのモノをひたすら目指すんじゃなくて、色々やってみてとある境地に到達する事が大事であるよと。
かの有名な映画監督、小津安二郎も最初から娘をお嫁に出す話ばかり撮ってなくて、エロ神のうんたらかんたらっつう映画を撮っていたんだと。
そんなようなことを現在の鬼才映画監督、園子温が自伝の中で書いていたような気がしております。

なんだか前にも書いたような気がしなくもないが、
とにかく僕はやりたい事が多すぎる割に飽きっぽいという致命的な欠陥。
(例えて言うならばバイキングで色々料理を取ってくるは良いが、一口だけ食べて全部残すとかそういう話)

まあそんな事もあって、YouTubeの動画をあげるチャンネルも4つ開設しちゃったという。

暇だったら見てね(宣伝)



脱線しまくったが、

僕はダメ人間である。(多分次回詳しく書くかも。気が変わるかも)

正直、今どうにかしないと今後マジで人生詰む。
(30にして寝る、という言葉がぴったりんこ)
頑張れアラサー男子!頑張れ真央ちゃん世代!

まあそんな自戒を込めを込めたりなんやかんやで、
「脱ダメ人間への道」としました。


今後の方針としましては、
ダメ人間克服への道とか、
たまーに映画レビューだとか、
駄文をグダグダと書き連ねてみようかしらとか思っております。
(カテゴリー分けして見やすくしろって話ですね・・・)



2017年5月3日水曜日

私が創作をサボることについて

私は怠惰な人間である。
時間や手間のかかることは大嫌い。
やろうと思ったことは大体3日ぐらいしたら飽きる。(ブログの更新頻度を見ておくれ)

「嗚呼これやりたいな」
ということが多くて色々なものに手を出すのだが、なぜかやろうとしたことに時間を割くのがもったいないと思い始めてしまう。
沢山やりたいことがあるので、やりたいことは取捨選択したいとは思うが、
取捨選択した結果、余った時間はボーっとするかスマホかジョニー弄ってるかなのである。

仕事以外で時間を費やすもの、それすなわち趣味と定義づけるのであれば
私の趣味は昼寝かネットサーフィン(波乗りジョニー?)。

まあ昼寝とサーフィンを抜きにした趣味といえば
映画やら写真やらなんやらっつう自己表現なのかなという感じ。(黒歴史がいっぱい)
何で自己表現したいと思うようになったのかはよくわからん。
(静かに暮らしたいと思う反面、めっちゃ目立ちたいとか考えてるからかも)

あ、これやりたいな
って思ってYouTubeなりなんなりやっているわけであるが、
しばらく続けていると初期のような
「うおー、100回再生だー!」
みたいな感動もなんだか薄れ、
何でこれやってんのかな?みたいになってくるものであるよ。

昔から自己表現やってて陥るパターンとして、

最初は自分のために作る。
自分のために作った!よっしゃ!満足!ポイっ!

というパターンがあまりにも多すぎる。

人に見せる、認められる、続けるっていう回路が欲しいのであるが、
人に認められるとこにたどり着く前に自分で満足しゃちゃって結果サボる。

かといって人に認められるために自己表現をしてるわけじゃあない。多分。
いや、違うなこれ。
人に認められたくてしょうがないんだけど、認められるとこに達する前に心が折れてるだけかもしらん。

じゃあ人に認められた先に何があるというのか?
人に認められたら満足なのか?
(そこまでたどり着いてから考えなさい私)


創作とは最終的に自己満足の世界であるかもしれない。


創作をずっと続けられる人というのは多分自己満足の閾値が高い。
人に認められるというのがゴールじゃないからだ。
ずっと欲求不満の自分を満足させるのがゴールなのだ。


かの偉大な喜劇王は
「あなたの最高傑作は何ですか?」
と問われるとこう答えたそうな。

「次の作品です」